研究成果

2021 0516 藤井先生御発表PPT.pptx

藤井嘉章  日本学術振興会特別研究員PD 

 「博論内容の構成方法と大学院生活の過ごし方」 

2021/05/16 和漢韻文研究会 2021春期 研究発表会

発表概要】

大学院に入ったものの、どのように研究を進めて行けばいいか見当がつかなかったり、院生の最終目標である博士論文を完成させるにあたり、どのような段階を経れば良いのかの見通しがつかない方もいらっしゃると思います。本発表では、私個人の経験ではありますが、大学院での生活の中で博士論文の全体をどのように構成していったのかをお話ししたいと思います。

本発表で伝えたいことを一言で言えば、授業や学会発表、助成金の申請書などの機会をうまく使って、博士論文を構成せよ、ということです。

私に関しては、最初から博論の全体像が見えていて、そのゴールに向かって日々の研究を進めていったわけではありません。村尾先生の院ゼミが”たまたま”『新古今和歌集』であり、宣長の注釈の独特さに気付いたこと、外大の日本思想史の先生が”たまたま”宣長で博論を書かれた友常先生だったこと、超域研究の李孝徳先生の院ゼミで”たまたま”、後にコーネル大学時代での指導教官になる酒井直樹『過去の声』の書評論文を書いたこと、日本語学の院ゼミで”たまたま”宣長がその法則を最初に発見した「係結」について川村先生が取り上げて下さったこと。それらの”たまたま”の課題にその都度、真剣に取り組んでいった結果として手元に残ったレジュメから、博論の部分部分を作っていき、結果として全体としての博論になった、という過程でした。

その過程を経る中で、いま自分が最も完成度の高いと思える研究を学会発表にぶつけていきました。私の場合は宣長の本歌取論でしたが、結果としてこの研究が博論の一つの柱になりました。

さらに学振の申請書を書くという機会は、今後の研究者としてのキャリア形成に関して非常に重要なものでしたので、モチベーションの高い中で、自分の研究の全体像を他者に分かりやすく伝わる形で整理するいい機会になりました。結果として自分が何をやろうとしているのか、研究史の整理を踏まえた上で明確にすることができました。学振PDの申請書は、そのまま博論の序章として使いました。

最終的にいままで書いてきたレジュメや、投稿論文、未発表原稿を搔き集め、それらをパズルのように組み合わせた後で、博論としてまとまりをもたせるために必要な文章を追加で書き下し、最終的な博論の形になったというステップでした。

大学院生活の中での一回一回の授業や発表、申請書の執筆を全力で取り組んだ上で、そこに自分自身で全体像の輪郭を見出していく、というのが私の博論の構成方法でした。
【論文公開】

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20210516 陳璐先生 御発表PPT.pptx

陳璐  早稲田大学兼任講師

「博士論文執筆のプロセスとメソッド」

2021/05/16 和漢韻文研究会 2021春期 研究発表会


【発表概要】 学位論文執筆の進捗は、実際は本人の努力次第であって、必ず成功にたどり着ける近道などというものはありません。しかし私がこれまでずっと研究仲間や指導教員の先生のから多くの指導と刺激を受けたからこそ順調に進んで来られたのも確かです。この機会をお借りして、長年を費やして完成にこぎつけた博論執筆のプロセスとメソッドを具体例の一つとして共有し、少しでも論文執筆の途上にある方々のお役に立てればと思います。

私の外国人研究者としての道は、専門知識ゼロの状態から歩み始めたものです。研究の対象を北村透谷という明治期の詩人・思想家に決めてから博論が完成するまで、十年近くの時間を費やしました。その道のりは、具体的には以下の七つの時期に区分できると思います。

1)専門知識の基礎を固める時期(大学院入学前の1年間)

2)知識吸収と並行して、関連する先行研究を読み込み分類する時期(修士1〜2年目)

3)既存の先行研究の枠組自体を考え直す時期(修論執筆期)

4)自身の方法論を固め、博論執筆に取り掛かる時期①(博士1〜2年目)

5)学会発表、アメリカ再留学、読書会、論文公表を積極的に行う時期

(博士2〜4年目、学術振興会特別研究員期間)

6)方法論を再考し、改めて博論を構成し直す時期②(博士5年目)

7)大学に勤務しながら、博論を執筆する時期(博士5年目〜最後まで)

その中で、私自身にとって特に重要だったのは、2と3の先行研究整理と修論執筆期、また5と6のアメリカ留学及び方法論を考え直す時期でした。これら全てのプロセスが具体的にどのような役割を担っているか、またそれぞれの時期に注意すべきこと、力を入れるべきことを、本発表でお話したいと考えます。また、私個人の経験の範囲で先行研究の探し方、博論と修論の違い、論文執筆の際の構成と書く時の進め方の工夫点、また役に立つ注意事項などについてもお話しします。



【論文公開】

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2021 0516 解放先生 御発表PPT.pptx

解放 東京外国語大学国際日本学研究院特別研究員

「安部公房」と博士論文

2021/05/16 和漢韻文研究会 2021春期 研究発表会


【発表概要】 私は博士前期課程在学中に、早稲田大学の石原千秋先生の授業を聴講する機会があった。石原先生の「私の学部生が卒業論文のテーマについて迷っていたとき、私は大体安部公房を書いてみると良い、とお薦めした」という言葉は印象が深かった。石原先生によれば、安部公房に関しては、書く角度が多いので、割と書きやすいが、その一方で、博士論文の対象には向いていない。なぜならば、安部公房の作品は日本近代文学において、もっとも複雑なものの一つとなっているからである。

確かに、戦後の日本文学において、安部公房(1924-1993)は最も論じ難い作家の一人であると言えるかもしれない。1940年代から執筆し始めた安部は、半世紀にわたって創作し続け、戦後日本に関する自らの思考を語ってきた。その膨大な作品群は小説のみならず、映画、戯曲、テレビ/ラジオ・ドラマなど、多様なジャンルに及ぶ。また、安部は小説家や劇作家、脚本家など、総合的な芸術家として活躍してきたばかりではなく、日本共産党員として数々の政治運動にも関与してきた。更に、安部は日本の植民地である満洲からの引揚げ者であったために、彼の作品には植民地での記憶を伺わせるものが多い。安部の経歴は、戦後の日本及び東アジアにおける激動の情勢と重なり、こうした多様な経歴によって生み出されたアイデンティティの多様性が、彼の文学テクストの多義性に繋がったとも考えられる。

本発表では、まず、私の博士論文の主な内容を紹介する。すなわち、戦中から戦後にかけての安部公房の実体験に焦点を当て、この実体験によって生じる彼の複雑な意識と、同時代の日本社会との葛藤を明らかにしていきたい。次に、発表では、私が安部公房を博士論文の対象とする原因や、執筆過程において直面した困難と、その困難を如何にして克服してきたか、といった個人的なことについて触れる。最後に、外国人として日本近代文学を研究する際に出あう諸問題についても語る予定である。



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2021 【配布用】 平原真紀「論文執筆の基本と手法」.pptx

平原真紀 東京外国語大学国際日本学部兼任講師

論文執筆の基本と手法

2021/05/16 和漢韻文研究会 2021春期 研究発表会


【発表概要】 この度、指導教員の先生方や院生仲間達、そして、家族にも支えられて博士論文を完成させ、学位審査を通過することができました。私は、卒業論文から一貫して同じ文学作品研究に取り組んできましたので、こうして振り返ってみる時、もう十年以上の月日をひとつの研究に費やしてきたことになります。

また、村尾研究室に入った頃から、院生仲間が執筆した数多くの発表・投稿論文や修論、博論などを、先輩や後輩、本邦学生や留学生、学術分野などの区別なく、日本語チェックさせて頂いて参りました。様々な分野の修論や博論を、中には目次確定の前から執筆者と共に校正させて頂いたこの経験は、そのまま自分自身の博士論文執筆にも大きく役立つこととなりました。特に、実際に論文を執筆する以前に必要な基本調査や作業とその手順、論文を執筆中に気を付けるべき表現や手法については、数多くの院生仲間達の論文から様々な具体例として教示頂きました。

本発表においては、私自身が修士論文や博士論文を執筆する際に、数多くの院生仲間の論文から学んだ、①知っておくべきこと、②執筆時や審査時に参考になったこと、などを中心に、実際に論文を執筆する際の基本と手法を、ひとつひとつ具体的に挙げながらこれから論文執筆予定の皆さんと共有できればと考えています。

具体的には、以下の7点についてお話する予定です。

1.修士論文や博士論文の実際の執筆手順(調査期間と執筆期間)

2.研究テーマ決定に必要な作業

  (先行研究の調査やテキスト選定について)

3.論文執筆の基本的な手順(文系人文学系論文を例として)

4.資料メモと参考文献リスト(メモの活用とリスト作成の注意点)

5.基本的な論文構成と目次の作成方法

  (部建て、章立て、節分けの重要性)

6.総論と各論の書き分け方と段落構成

  (トピックセンテンス、接続詞、語尾表現)

7.より良い論文にするために

  (指導教員、副指導教員、他大学教員)

本発表が、これから修士論文や博士論文を執筆される後輩の皆様にとって、少しでも有用なものとなれれば幸いです。



【論文公開】

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2021 0516 二階さん御発表.pdf

二階健次  東京外国語大学大学院博士後期課程

衲叟馴窓の前半生とその職能

2021/05/16 和漢韻文研究会 2021春期 研究発表会


【発表概要】 本発表は「令和二年度和歌文学会 第六十六回大会」で公表した資料に、その後の研究成果を踏まえ、加筆修正を加えたものです。

衲叟馴窓は、中世私家集の一つである『雲玉和歌抄』の編者ですが、その出自、経歴等については知られるところがほとんどありません。本家集の編纂は永正十一年(一五一四)で、下総国佐倉という地方歌壇の所産であります。衲叟はその筆名から禅僧と思われますが、内容をみると日蓮宗、時衆の影響も強いという特色があります。さらに、八洲文藻所収本には「源貞範」の俗名が記されています。そこで、衲叟の来歴について更に解明できる、何か手掛かりはないか、調べてみることにいたしました。

この調査のツールは『雲玉和歌抄』そのものしかありません。そこで、本家集から生涯に関わる事項をピックアップし、精査してみました。そこから明らかにできた歌歴として、出自は東上総と思われること、三十歳代には歌を詠んでいたこと、初めての歌合の判者が木戸孝範であること、若年の頃宗祇に連歌を指南されたこと、一端連歌は諦めて和歌に専念したが老後に臨んで桃井野州に連歌を勧められたこと、晩年に下総千葉氏に招請され、佐倉歌壇で活躍したこと等が浮上してきました。

 今回は、下総国に庇護されるまでの前半生に焦点を当てたものですが、そこで注目されたのが木戸孝範との関係です。孝範は堀越公方政知の烏帽子親となった重臣で、衲叟と同時代の武将歌人です。衲叟は若年で江戸城近くに住み、孝範を通じて太田道灌、東常縁、連歌師心敬等と交流しましたが、歌友以上の関係があったと思われます。それは何か。周辺の状況から使僧、陣僧という歌僧とは別の職能を想定してみました。それと共に碁打であった可能性もあり、衲叟の詠草との関係性について考察しました。

そこには衲叟の歌に、同時代の宗長や松陰等がそうであったような、単なる歌解釈を超えた、戦塵に塗れた武士の実践的詠草の姿が見られるという発見がありました。


【論文公開】

―準備中―